La Vento 382

La Vento
N-ro 382    2017年 9月号
Suita Esperanto-societo

吹田エスペラント会会報  発行:矢野義男 吹田市山田東2-25-13
郵便振替 00970-0-319578   年会費 6000円  準会費 2400円
ホームページ http://suita.chu.jp


☆ 年々夏の暑さが厳しくなってきていますね。今年の暑さも尋常ではありませんでした。
9月半ばになり、やっと、朝晩が涼しくなり過ごしやすくなってきました。

☆ 11月3日の吹田市民文化祭ふれあい講演会のチラシができましたので、同封します。ご参加よろしくお願いします。日本大会と日程が重なっていますが、遠方へ行かれない方は、できるだけご参加ください。

日時:11月3日(金・祝)1時~4時
場所:千里市民センター多目的ルーム(8階)
(阪急千里線南千里駅下車西側すぐ)
内容:講演(桂福点さん)とエスペラント体験(川村泰範さん)

☆ 相撲の秋場所が始まったので、また、吹田エス会もエスペラントの相撲に参加するこ
とになりました。
今回のメンバーのそれぞれの読む本と一日の読むページ数は下記のとおりです。
Granda Kampo:  po 3 pagxoj tage  “Orpantalono”
Lumo: po 2 pagxoj tage  “Paroladoj de D-ro L.L. Zamenhof”
Majo: 10 pagxoj  “La Nova Krestomatio”
Mateno: 2 pagxpj  “Kvar fabeloj de Miyazawa Kenzi”
Samo:  2 pagxoj  “La dangxera lingvo”

私(矢吹)は、自分で一日何ページこの本を読むと公言してしまうと、なんだか無理をしてでも読もうという気になって、今まで怠けていた自分が恥ずかしく思えてくるような、何か変な気分になって、今、相撲に参加しているところです。参加しないときっとまた、怠けてエスペラント文を読まないのではないかと思うので・・・。

徳島の矢野さんが7月に上勝町に地方創生事業の提言をされたということなので、さっそくその提言をラベントに掲載させていただくことにしました。長いので、3~4回に分けて掲載させていただきます。

上勝町有志殿
平成29年7月14日
椿油による地方創生事業の御提言
矢 野 明 徳
<1>はじめに
はじめまして、今日ははからずも私達徳島県ツバキ協会に対し、このような地方創生事業として可能性のある私たちの具体的提案を聞いて頂ける場を設定して頂き、感謝申し上げます。事務局の谷中、常松と共に、企画担当として活動させて頂いている矢野でございます。
本年2月15日に谷中先生の御伴をして、いろどり(株)の横石社長、上勝一休(株)美馬取締役、鶴代支配人にご面会させて頂き、椿油搾油事業に関する提案を少しだけ説明させて頂きました。その時は全く具体的話はできなかったのですが、その後元徳島県職員の玉有繁氏(椿協会会員)より椿油採取の為の椿の苗の植栽計画を推進している椿協会の現状を元町長様の笠松氏に説明をさせて頂きましたところ、興味がありますのでとの事で、それでは具体的な話を聞かせて欲しい旨連絡を頂き、5月25日に私の自宅にご夫妻が来られまして、椿油採取に関する活動の内容についてつぶさに現状を聞いて帰られました。その時の話は、終始、現在地方が抱えている諸問題について、具体的な解決策も進展もない現状を憂え、このままでは大変なことになるとの危機感を共有することになりました。
先般、たまたま後藤田正純衆議院議員と喫茶店でお会いする機会がありました。常松氏から地方創生は大変だとの意見を言いましたら、即座に地方の現地の方が頑張らないとどうにもならないとのご意見でした。徳島県には優秀な公務員がおられると思いますが、具体的に何をどうやって地方を活性化させたらよいかについては旗ふりばかりで、全く知見がないのが現状です。地方は県や国がそのうち何とかしてくれるだろうと待っているようですが、それはあまりにも甘く幻想にすぎません。自分たちの村は自分たちで守るという気概が必要なのだとつくづく感じています。
今日はより具体的に私たちの椿油のビジネスを基礎にして如何に地方を活性化させるかご提案をさせて頂きます。これはあくまで私たちの椿協会としての見解ですので、皆さんよく御相談され、もしご賛同頂けますならばさらに微力ながら協力させて頂きます。
また、私は脳卒中患者のため、左半身が麻痺しており、言葉も思うようにしゃべれませんので、紙面にて自分の思いを書かせて頂きました。良くお読み頂き、質問があれば後日文章にてお答えいたします。悪しからずご了承願います。
<2>自己紹介
昭和23年生まれで来年70歳に到達します。脳卒中で倒れて7年が過ぎますが、リハビリをしても改善せず、現状維持がやっとです。このような現状においても、何とか過去の経験を活かして、将来おこるであろう地域活性化の問題に少しでも役にたとうとの思いから、日々頑張っております。
まず、仕事面ですが、徳島市川内町に工場があり、研究所が京都にあります新日本理化㈱という化学素材メーカーに昭和48年に入社し、入社から約20年間、化学プラントの設計者として現場で設備の設計・施工監督・試運転等に携わってきました。その後自分が建設した設備を生産担当として製造に携わってきました。素材メーカーですから、最終製品を作っていませんでしたので、一般市民にはあまり知られていませんが、素材の品種として約1000品目を取り扱い、会社全体として、売り上げ高300億円くらいの商売をしていました。退職前は雇われ重役として大阪本社にて8年間経営に携わってきましたので、会社人生の大半は化学素材の設備・生産・・管理を担当し、経営等販売業務を除いてほぼ化学素材事業の基本的課題について勉強してきました。
会社での生産品目の原料の殆どが、石油及び動植物油脂でした。一番多い原料はマレーシアから輸入の油脂でした。最終製品はシャンプー・リンスの原料で花王・ライオン・資生堂等向けでした。また動植物油脂からはグリセリン・油剤等の各種品目を生産していました。これらの原料は基本的に“油”なのです。ここに私の現在活動している油にこだわる原点があります。
このような経験をもとに、身近に存在する油を地域活性化の起爆剤にしようと思い立ち、
とりわけ、椿油の主成分が85%のオレイン酸であることから、これに注目し、5年前に徳島県ツバキ協会に入会し、現在に至っています。毎年椿展を春に開催し、椿油の効用が如何に素晴らしく、工業的にも大切な素材であることを訴えてきました。
一方、自宅が先祖代々農家であったことから、米作主体の農業を自分でやってみて、農業のあまりにも収益のなさに驚き、次世代の一次産業の労働者育成が至難になってきている現状を何とかしなければとの思いで、お米の代りに藍を植え、藍産業の復活を夢見て、
藍を染料としての素材では無く、化学原料の素材として藍油を考えたらどうかとの提案をし、具体的に藍の種子を採取し、いろいろな実験をして可能性をさがしています。
この先、どういった展開になるのか自分でもわかりませんが、努力していると誰かが、見て、一緒に頑張りましょうという賛同者が現れてくれ、目標に一歩近づくものと信じています。その意味では徳島県ツバキ協会の有志の皆さんは有難い存在なのです。
今日はこのような話を聞いて頂けるだけで、有難いと思っています。
<3>地方創生の実例について
退職前、今から10年前、飯泉知事の呼びかけで、徳島県大阪出張所からお声がかかりまして、大阪在住の徳島県出身者30名程度を集めて、ホテルオークラにて懇親会を開きたいとの事でした。知事からは、” これから徳島県は、このまま何もせずに放置しておくと、大変なことになる。何とかせないかんと思うが、残念ながら妙案が無い。そこで皆さんになんでも良いからこうすれば良いですわという提言をして頂きたい。“という内容でした。 ”私ごとき一介の技術屋が参加してもなにも話すことはない。自分の会社のことで頭が一杯なのです。“と返答し、断ったが、受け入れてくれず、とうとう参加するはめになりました。参加してみると、地方創生を如何にするかという話に終始していました。皆さん、いろいろと提言されていましたが、これと言った妙案は無いように感じたのでした。
さて、私は自分の家庭のことを話しました。
祖父は真面目で重労働をいとわず、コツコツと働く人でした。真面目働いているとその内、良い暮らしができると考え、昔からの日本の野菜を中心にきゅうり、白菜、きゃべつ等なんでも手当たり次第に栽培していました。親父は働けど、働けど、農業は所詮水飲み
百姓だと言って、公務員になり出世を夢見て、農業を極端に嫌っていましたが、後継者が無い現状で、断腸の思いで、最終的には農業を職業とせざるえない結果となり、それでも祖父の仕事ぶりを横目で見ていて、日本の野菜作りでは駄目で、洋野菜に注目し、近所に住んでいた従弟と切磋琢磨し海外から洋野菜の種子を買い付け、それを育て、米作の裏作に最も適した野菜が何なのかを探す努力をしていました。このような努力が実を結び、カリフラワーが自分の田畑に最も適した作物であることを発見したのでした。昭和30年代の初めでした。当時サラリーマンの初任給が4~5万円程度の時代で、カリフラワー1箱8個入りが1000円でした。この箱が一日多い日に50個出荷するのです。売上高が一日5万円あり、サラリーマンの1か月分の給料を一日で稼ぐという離れ業をやり遂げたのでした。近所の人には、とりわけ羨ましがられ、栽培方法、種子の買い付け方法等教えてくれと何度も懇願されましたが、親父は断固として教えず、私に対しても何度もこの件は絶対口外するなと念を押されていました。当時は日本に在住の外国人が購入の対象者であり、増産すれは暴落することは、明らかだったのです。時代は過ぎて、ベトナム特需もあり、日本人が洋野菜を食べる習慣が徐々に増え、需要も伸びていきました。そして川内地区は今や日本一のカリフラワー産地となったのでした。これは50年経った今でも日本一の産地を維持しており、売上高2億円以上を上げており、JAの中では特異な存在になっています。
50年以上特産品を維持し続けることは至難のわざだと言われています。
飯泉知事との懇親会で、私はこのような自分の家庭が背景にある地域の特異な農産物をもっと増やすべきだと言ったのでした。そして、農業の生産物として油を考えるべきだと言ったのでした。また、ドイツの農業をもっと調査し、見習うべきだと言ったのでした。菜種を栽培し、観光を目的としたイエロー道路を作り、種子から油を搾り、油脂産業を育成すべしとの提言をしたのでした。
不思議なもので、発表会が終わり、懇親会に移ったその時でした。突然大阪青果の常務取締役の山本氏が私のところに来られ、名刺を頂き、「あなたの御家でしたか、カリフワラーの栽培農家の発生源は、嬉しいですね。きょう、こんな話を聞くことができて嬉しいです。」とおっしゃり、「実は私は若い頃、徳島市、川内組合に頻繁にお邪魔してカリフラワーの特産地の指定化の仕事をしていました。当時私担当した仕事がこのように評価されるとは、本当に嬉しい限りです。」とおっしゃって、感激しておられました。その時、私は思ったのでした、親父は自分が密かに栽培してきた野菜が、いつのまにか日本一の特産地に指定されることなど、努力もしていないのに、あたかも自分の努力でしたように思っていたが、実は陰で努力された方が存在していたのだと。 (次号に続く)