La Vento 360 (2014)

La Vento

N-ro 360   2014. 12月号

Suita Esperanto-societo
吹田エスペラント会会報  発行:矢野義男 吹田市山田東2-25-13
郵便振替 00970-0-319578   年会費 6000円  準会費 2400円
ホームページ http://suita.chu.jp


北摂ザメンホフ祭終わる!

12月7日(日)、午後1時半から北摂ザメンホフ祭が、箕面市中央生涯学習センター2階の講義室で開催され、14(豊中5、吹田5、池田3、宝塚1)が参加した。担当の吹田エス会からは佐藤、矢野博幸、松田、大畑、矢吹の5名が参加。司会は佐藤。
開会の挨拶の後、佐野さん(豊中)から先日亡くなられたタニヒロユキさんの追悼スピーチがあった。多くの著書を遺されたタニさんの功績に感謝するとともに若すぎる死を惜しんだ。
次に、11月3日の吹田の「エスペラントふれあい講演会」で桂福点さんが音楽療法を紹介する場面のビデオ放映の後、吹田エスペラント会の矢吹より「エスペラントと視覚障がい者」のタイトルで講演。初めに福点さんのこと、次にエスペラント界と視覚障がい者のこと(先駆者たちの活躍と現在の視覚障がい者の団体やエスペラント学習を援助する様々なソフトなど)について(この原稿はP.2~4に載せている)。その後、豊中エス会の山野さん編集による福点さんのエスペラントを交えた落語「平林」と歌 “O, suno mia”とEテレのバリバラで放送された、劇中の福点さん演ずる 怪しい男のエスペラント語の鼻歌を聴いた。
次に本の紹介があった。佐野さんからは、『エスペラント中級独習』と “Esenco kaj estonteco de la ideo de Lingvo internacia”が、佐藤さんからは、“Japana Literatura Juvelaro” と“La Vilagxo, al kiu blovis la vento” が、島谷さんからは、 “La aventuroj de Sxerloko Holmso”が紹介された。皆、紹介上手だったので私もつい2冊買ってしまった。
休憩の後、MGK24の「恋するフォーチュンクッキー」のビデオを見ながら皆で楽しく踊り、佐野さんから「北摂市民をつなぐ地域文化projekuto」のとりくみについてお聞きした。
引き続き佐野さんの講演「エスペラント俳句の取り組み
があった。豊中国際交流センター活動発表会におけるエスペラントの俳句紹介の動画上映と、英語に比べてエスペラント語が作句において優位であることを話された。
次は、池田エス会の恒例の狂言、「鈍根草」Miogo kaj Akvopipro を島谷さんと岩田さんが絶妙のやり取りで演じられた。よく、あんな長い文を覚えられるものだと感心。
最後は浅田さん(宝塚)の歌唱指導で “Pasintaj Tagoj (蛍の光)” と “Esperanto estas la lingvo por ni” を合唱して終わった。
懇親会の参加者は12名、会場近くの「翠蓮」でおいしい台湾料理を堪能した。(矢吹)

講演の原稿
エスペラントと視覚障がい者
矢吹あさゑ

1. 桂福点さんのこと
福点さんは、音楽療法士と落語家という二つの顔を持っている。福点さんは音楽療法を取り入れて、会場の雰囲気をほぐしながら、話を進めていかれる。この音楽の力の素晴らしさは、私も長い教員生活を通して体験した。特に、視覚障がいと他の障がいを併せ持つ児童にとっては、音楽は発達を刺激する有力な手段となる。また、音楽療法は認知症のお年寄りにも有効だと思われる。福点さんはご自身の失明と文字を失うという苦悩から死を考えるようになった時に、障がいの重い友達の歌う、さだまさしの「道化師のソネット」を聞いて「生きよう」というエネルギーをもらったそうだ。音楽によって救われたのだ。だから、福点さんは普通の落語家と違い、自分で作詞作曲した曲を紹介し、時にベルカント唱法で歌い、時にリコーダーを演奏するなど多才さを披露しながら、音楽と言葉(笑い)の素晴らしい力によって、聴衆を励ましているのだと思う。福点さんは、努力家でもある。中途失明をして点字の読みを獲得するのには、大変な忍耐と努力が必要だ。点字の読みを習得するのには小学校の低学年が最適で、大人になるとどうしても指先の皮膚が厚くなるので点字を読み取る感覚が鈍くなってしまう。また、指を上下に動かして読む癖がつきやすく、片手だけで読みがちになり、なかなか速く読めない。でも、福点さんは、そこそこのスピードで点字を読んでおられるので、かなり努力をされたんだと思う。落語も、人一倍の忍耐と努力を積まれてプロになられたと思う。
福点さんは平和についても独自の主張を持っていらっしゃるし、宮沢賢治につても見識があると思う。NHKラジオ第2放送で、2011年7月31日と再放送の8月7日と2012年1月8日に「桂福点の銀河鉄道・音めぐりの旅――花巻に宮沢賢治を訪ねて――」のタイトルで出演されている。その時のラジオ番組の紹介では次のように書かれている。
「・・・岩手県花巻市の、胡四王山中腹にある宮沢賢治記念館は山の木々に囲まれ、森の鳥たちのさえずりと共に、宮沢賢治の原画風景が色濃く残っているところです。チェロの音色、ざわめく風の音、たおやかな花巻弁、果てはエスペラント語まで、豊かな音の世界を全盲の落語家、桂福点さんが旅をします。
番組の随所に賢治作品の一節を織り込み、宮沢賢治(1896~1933)のファンタジーな文学の世界も楽しみながら、賢治の「ことば」の豊かさと、賢治の想像力をはぐくんだ東北の人と風土の大きさ、人情の豊かさも味わっていただきます。さあ、桂福点さんと一緒に、銀河鉄道に乗って、音めぐりの旅をお楽しみください。」
福点さんがその旅をした時に、そこで賢治ゆかりの花巻農学校を卒業したおばあさんのガイドに会い、そのおばあさんが在学中に習った賢治作詞作曲のエスペラント語の歌(応援歌と校歌)を歌ってくれたそうだ。そして、そのエスペラントの曲が周りの風景とマッチしていてとても感動したそうだ。福点さんとエスペラントの出会いは、その時だったようだ。
そして、今、エスペラント学習にめざめられたようだ。英語は、スピードラーニングでマスターされたそうで、エスペラントもスピードラーニングがあればいいのに・・・ともおっしゃっておられる。
発想も豊かな方だから、今後もっともっと多方面で活躍されることを期待している。

2. エスペラント界と視覚障がい者
(1)点字について
1825年フランスのルイ・ブライユが6点点字を考案した。日本でもブライユの点字を改
良して日本語点字を作る研究が進められ、1890年(明治23年)11月1日、石川倉次の案が採用されることになった。これが現在の日本語点字で、この日が「日本点字制定の日」になっている。
(2)エロシェンコについて
1890年1月12日に南ロシアに生まれる。4歳の時、麻疹にかかり、高熱のため失明。9歳から18歳、モスクワ盲学校で学ぶ。卒業後、盲人オーケストラのメンバーになる。イギリスの音楽師範学校へ行くため、アンナ・シャラーボアにエスペラントを習う。1912年、2月イギリスへ行き音楽と英語を学んで帰国。1914年4月東京の盲学校で指圧の勉強をするため来日。
1915年2月21日、秋田雨雀との親交始まる。雨雀は翌日からエスペラントの勉強を始める。エロシェンコはエスぺラントで書いた自分の文章を雨雀に翻訳してもらい日本の新聞や雑誌に発表。1916年7月、東南アジアへ3年間放浪。インドで「日本へ戻れ」と国外追放(ロシアの10月革命のため)となる。1919年、新宿中村屋のアトリエに住む。中村屋に母国仕込みのボルシチのレシピを教え、また、店員の制服として彼の着用したルバシカが採用されたそうだ。この年の10月、神近市子と交流。ロシアの童話を口述して神近が筆記、書き直して雑誌に発表、童話作家として知られるようになる。社会主義運動と接触し、その思想を童話の中に表現した。メーデー参加と日本の社会主義者の会合への参加を理由に逮捕され、1921年5月国外追放となる。
1921年上海へ行き、北京大学の講師となる。1923年と1924年の世界エスペラント大会に参加したあと、モスクワへ。その後、1934年からアフガニスタンで11年間盲学校の校長となり、1945年~1946年はモスクワの盲学校の教師となり、癌を患い、1949年~1951年はタシュケントで暮らし、生まれ故郷のオブホーフカで1952年12月に62才で亡くなった。エロシェンコは「本当の自由」「なにものにもとらわれない勇気」を童話や詩やエッセイの中に描いた盲目の吟遊詩人だった。
(3)日本の視覚障がい者のエスペラントの歩み
1915年、エロシェンコは、東京盲学校で生徒有志にエスペラントを教える。その生徒の一人、鳥居篤治郎(1894~1970)は熱心に学び、エロシェンコと無二の親友となり、以来、盲学校教員となってからも、終生、エスペラントを視覚障がい者の間に広めることに情熱を燃やし、忙しい仕事の合間を縫って、奥さんの鳥居伊都さんとの二人三脚で『エス和辞典』や『エスペラント捷径』など数多くの図書を点訳した。彼は、「戦後の混乱の中で盲学校を再建し、マッカーサー指令であわや奪われかかった、視覚障がい者の唯一の職業であったハリ・キュウ・アンマ業を死守するために奔走。1966年、それまで停止していた日本盲人エスペラント協会(JABE)を再建した。」
岩橋武夫(1898~1954)は大阪の日本ライトハウスの創立者で、日本盲人会連合の初代会長。ミルトン研究の英文学者でもあった。1918年には大阪市内の法庵寺で、1919年には大阪市立盲学校で、高尾亮雄(たかおあきお)が講師でエスペラント講習会が開かれたが 、当時大阪市立盲学校の生徒だった岩橋も全盲の牧師の熊谷鉄太郎(1883~1979)と共に両方に参加。同じ年(1919年)の12月10日から21日まで、エロシェンコが岩橋宅に宿泊し、大阪市立盲学校でエスペラント講演会を行い、封建的なあんまの徒弟制度を鋭く批判し大反響を巻き起こした。1922年、熊谷鉄太郎が中心となり、高尾亮雄、鳥居篤治郎、岩橋武夫らが東亜盲人文化協会を設立。この年、「わが国の盲人福祉が一時に花開」いた。同じ年(1922年)大阪市立盲学校と岡山県立盲学校でエスペラントの授業が開始され、1923年、岡山で開かれた第11回日本エスペラント大会で初めて、盲人分科会がもたれた。大阪市立盲学校では、1929年ごろまで授業が続けられていたそうだ。1925年から1年半の間、磯崎巌(後の筆名伊東三郎)が教えていたそうだ。
(4) 視覚障がい者の団体について
1 JABE
1928年、留学から帰った岩橋武夫は、鳥居篤治郎らと協力し、日本盲人エスペラント協会(Japana Asocio de Blindaj Esperantistoj:略称JABE=ヤーベ)を創立。機関紙『オリエンタ・ブリンドゥラーロ』(Orienta Blindularo=東洋の盲人たち)の創刊号発行。鳥居は、「ヨーロッパの盲人たちは、自分たちの苦しみを解決するために一致協力しあっている。アジアの盲人たちは互いにバラバラで大きく立ち遅れている。私たちも一堂に会して互いの問題を話し合い、協力してその解決にあたらねばならない。その時どの言葉を使うか。中国語でもいけない。日本語でもいけない。ましてアジアの盲人が英語を使ってお互いに話し合うことほど悲惨なことはない。そのためにこそ、エスペラントを使わねばならない。この言葉をおいて他にはない。私たち日本の盲人は率先してエスペラントを学習し、アジアの盲人の中に広め、アジアの盲人が一致団結してその苦しみ悩みを解決し、生活を向上させていくために奮闘しなければならない。」とよく話されていたそうだ。
いさましく出発したJABEだったが、第二次世界大戦へと進む時代の影響を受け、活動は停止。1966年、鳥居によって再建され、『オリエンタ・ブリンドゥラーロ』の第2号が発行される。1965年、東京で開かれた第50回世界エスペラント大会を機に東京の日本点字図書館で、淵田多穂理(ふちだたおり)の指導のもとに、初級講習会が開かれ、講習会終了後、最後まで受講を続けた者が中心になって、ロンド・コルノが結成される。ロンド・コルノはJABEの事務局を支え、機関紙発行とエスペラントの点字書の出版活動を行っていたが、1993年ごろから活動が停滞する。1994年、伊豆でのJABE合宿での発議により5月末からJBS日本福祉放送(視覚障がい者対象全国ネットラジオ放送)での12週36回にわたる「国際語エスペラント初級講座」(講師:菊島和子)を実現させて活力を取り戻す。さらに2003年スウェーデンでの世界E大会と国際盲人E大会に正会員5人、晴眼者7人のJABE関係者が参加し、以降ほぼ毎年参加者があり、国際的に活動するようになる。

2013年エスペラント運動年鑑によると、会員は44人(正会員19、賛助会員25)、事務局長は田邊邦夫さん。毎年、各種E大会で活動している。

2 La Verdaj Okuloj
代表:原田作。「エスペラントをひろめる会」などでKaijero(La Movado)
の吹き込み、スカイプで海外視覚障害者と情報交換。会員1名。
3 エスペラント点訳会(Grupo de Ses Punktoj)
エスペラントの関係図書、文書の点訳。エスペラント点字についての情報交換。会員3名。
4 ロンド・コルノ(Rondo Korno)
視覚障害者と晴眼者が一緒にエスペラント語を学習するサークル。例会は毎週木曜日、早稲田のエスペラント会館で行う。例会外に入門講習会や筑波大学附属視覚特別支援学校への出張講習など。
5 エスペラントをひろめる会(DGE:Disvastiga Grupo de Esperanto)
2001年に盲人の温泉川さんの呼びかけで創立。会員は33人(視覚障害者19、晴
眼者14)。晴眼者は点訳、音訳、パソコン支援を行う。毎月声の会報Gaja Vocxo 発行。テープの会報は生の声を通して暖かな心の交流ができていいと、私は思う。
★会報作成の過程
会員からの記事(約10人の会員が大会参加の報告、学習関係、歌、雑談など)を
温泉川さんが編集。カセットテープ2~3巻にダビング。(最近は、MP3形式のファ
イルでCD-RW またはSDカードでも)
盲人用郵便物として発送。
会員は受け取ったら聞いて期日までにカセットテープを返却する。
会費は無料だが、点字の資料希望者は紙代を負担。
★点訳の内容
主な辞書、学習書、原発関係の図書、堀泰男さんの本など。
辞書の点訳もワードファイルがあれば簡単にできる。
★JEIの機関紙La Revuo Orienta はPDFファイルとテキストファイルを受け取りパソコンソフトで点訳したものを校正している。
★La Movadoの視覚障害者の読者数人はKLEGからテキストファイルで受け取りパソ
コンで聞いている。
(5)視覚障がい者のエスペラント学習を援助する様々なソフト
1 自動点訳:自動点訳編集システムibukiTenC,パソコン自動点訳システムお点ちゃん、エスペラント語の 点訳支援のソフト(ESPTEN)
2 点字エディター:日本語点訳システム『T・エディター』
3 エスペラント語・日本語読み上げソフト(ESTAP,EJTAP)
4 サピエ:視覚障害者情報総合ネットワーク(点字データーのデーターベース。エスペラントの本が200冊近く登録されている)
5 デジタル録音図書としてのDAISY(アクセシブルな情報システム)
以上のように多くの方々の努力により様々なソフトが開発され、提供されるようになり、まだまだ改良していかなくてはならない点はたくさんあると思うが、この10年近くの間に、視覚障がい者はエスペラント語を非常に学習しやすくなったと思う。

3.最後に
今回、私は、ザメンホフ祭で発表をすることになり、エスペラントと視覚障害者の関わりについていろいろ勉強させていただいた。そして、あらゆる困難にも負けずに立ち向かい、労力を惜しまず、たゆまぬ根気と努力を積み重ねて自分たちの目標達成のために励んでいる彼らの姿を知り、改めて敬服した。向上心や夢を持ち続ければ、人間まだまだできることがあるのではないかと、私も彼らから励まされ勇気と希望をいただけたと思う。
(参考資料:『闇を照らすもうひとつの光』片岡忠著、『エロシェンコ童話集』高杉一郎編訳、2013年エスペラント運動年鑑。また、山野さん、温泉川さんからも助言や協力をいただいた。)

ザメンホフ祭