La Vento 328

La Vento

N-ro 328   2011. 6月号

Suita Esperanto-societo

吹田エスペラント会会報   発行:矢野義男  吹田市山田東2-25-13
郵便振替 00970-0-319578   年会費 6000円  準会費 2400円
ホームページ http://suita.chu.jp

★ 今年は、例年よりも12日ほど早く、近畿では5月28日に入梅となった。台風も早々と来て、洪水になる地域も出たようだ。毎年、梅雨の季節には、各地で集中豪雨による被害も出ているので、今年は特に東北の被災地のことが気遣われる。壊れたままの堤防では、雨のたびに家の中に浸水してしまう所もあるかもしれない。
ある集いに参加した時、関東の人に「関西の人たちは、東北の被災や福島の原発事故に対する危機感が薄いのではないか。関東では毎日のように地震が起きているし、夜の街の照明も暗くなるし、電車も間引き運転になるなどで、今度は自分たちの番ではないかいう危機感が常にある。また、放射能も心配で毎朝、風向きを気にしている。」と言われてしまった。
でも、私にできることは、ささやかな義援金を出すことと節電ぐらいしかない。
(矢吹)
★ 吹田エス会のホームページ、見ていただけましたか。震災を心配して世界中のエスペランティストからたくさんのメールがとどいているようです。
★ 名古屋に住んでいらっしゃる吹田エス会会員の片山正昭さんの奥様がラベントに原稿を送ってくださったので次ページに掲載します。

7月、8月例会会場のお知らせ

7月 6日(水) 南千里市民センター
7月13日(水) 南千里市民センター
7月20日(水) 南千里市民センター

8月 3日(水) 南千里市民センター
8月10日(水) 南千里市民センター
8月31日(水) 南千里市民センター

ウーディネ訪問記

吹田エス会の会員である夫 片山正昭 は、仕事で海外に行く際、チャンスがあれば現地のエスペランティストと会ってきます。そのレポートを書く書くと言いながら、なかなか実現しないでおりました。この4月上旬にも、イタリアのウーディネ(Udine:エスペラントではウディーノUdino)を訪れる機会がありました。今回は私も同行し、現地のエスペランティストに会うことができました。そこで、いつも原稿を書かない夫に代わり、この場を借りてご報告したいと思います。
ウーディネは、イタリア北東部の、ユーゴスラビア・オーストリアと国境を接するフリウーリ=ヴェネツィア・ジュリア州 ウーディネ県の中心の都市です。人口約10万人の静かな大学街です。夫がウーディネの大学で行われる国際会議に出席している間、私は暇になるので、現地にエスペランティストがいたら会いたいと思い、出発前にインターネットで調べました。そして1923年からの歴史があり、現在も講習を行っている “Nova Espero Friuli” というグループがあることを知りました。
先方にe-メールを送って出発。ホテルへ到着した私たちを待っていたのは、「明日・明後日ご一緒させていただきます」というメッセージ! 翌朝、三人の素敵な男性 S-ro Martines, S-ro Liva, S-ro Rovere が、私を迎えに来てくださいました。
「ウーディネには、エスペラントに関係のある場所がいくつかあります。そこへご案内しましょう」ということで、最初に向かったのは、街の中心の小高い丘の上にあるお城です。現在は美術館になっています。城を取り囲む壁の外側に沿って歩いていくと、なんとそこには金色に輝くザメンホフの顔のモザイクが。このモザイクは、ウーディネ出身のエスペランティスト、アキーレ・テルリーニ (Achille Tellini, 1866-1938 )が1935年に作らせたものだそうです。彼の住んでいた家の中庭にあって半ば忘れられていましたが、ウーディネのグループを中心とする多くのエスペランティストが請願の手紙を書いたことにより、1965年に現在の場所に移され、誰でも見ることができるようになったということです。

ザメンホフのモザイクのある大理石の記念碑
ザメンホフのモザイクのある大理石の記念碑

続いて「エスペラント公園 (Giardino dell’ Esperanto)」 、「テルリーニ通り(Via Achille Tellini)」 と名付けられた場所にも行きました。これらは、エスペラント発表100周年の1987年に、ウーディネのグループが、街にエスペラントにちなんだ名前をつけてほしいと役所に申請し、1996年に認定されたものだそうです。
その後は車で近郊のチヴィダーレ(Cividale)へ。この街は紀元前50年にシーザーによって作られ、古くは「フォールム・ユーリイ(Forum Iulii:ユリウスの広場)」と呼ばれていました。現在の地方名「フリウーリ(Friuli)」はそこからきています。6世紀にイタリアに侵入してきたロンバルド族(Longobardo)が最初に定住した場所でもあります。彼らの遺した古い寺院などを見学し、ここはいろいろな文化の交差点なのだな…と実感しました。
翌朝、エスペラントの講習会場を見に行きました。ウーディネ駅の線路脇に “Dopolavoro Ferroviario (Fervoista Libertempa Organizo)” という建物があり、その一室を他の団体と共有で使っています。残念ながら新規講習会の開講は数日後だということで、誰もいない部屋をのぞいただけでしたが、保管されているアルバムや日誌を見せていただくことができました。そこには過去に来訪した方々のメッセージが書かれ、その中にお一人だけ日本人のお名前を見つけました(京都府亀岡の伊藤栄蔵さん)。「講習会には若い人も来ますか?」と尋ねたところ、「近頃の若者は遊びに忙しいので来ない。働いている世代か、我々のような年金生活者が中心だ」ということでした。
その後も世界遺産のあるアクイレイア(Aquileia)に連れて行っていただいたりと、至れり尽くせりでした。次の朝、もう一度ホテルにお別れを言いに来てくださったので、会議の終わった夫もご挨拶をすることができました。今回夫がエスペランティストと話したのは、このときだけでした。
最後に、この地方の言葉「フリウーリ語(Friulano)」に関するエピソードをご紹介しましょう。フリウーリ語はイタリア語の方言ではなく別の言語で、約80万人の話者があり、ウーディネの街の看板はイタリア語とフリウーリ語の両方で表示されています。今回案内してくださったS-ro Liva はウーディネ生まれで、フリウーリ語を話しますが、S-ro Martinez はシチリア島出身で、お互いの母語で話すと通じないため、イタリア語とエスペラントが共通語だと言っていました。
ウーディネで最後に立ち寄った教会では、フリウーリ語で聖書を朗読していました。受付の人によると、これは千人のボランティアが昼夜連続1週間かけて、聖書を最初から最後までフリウーリ語で朗読するマラソンイベントだということでした。聖書がフリウーリ語に訳されるのはこれが初めてで、自分たちの言語を守っていくための活動だと話していました。こんなところでもヨーロッパの言語事情を目の当たりにして、感慨深いものがありました。
片山浩子(会員の妻)

ザメンホフのモザイクの下で

Cividaleにて

ホテルの前で

写真は上から:ザメンホフのモザイクの下で、Cividaleにて、ホテルの前で